教会機関紙「御幸町だより」 牧師巻頭言
御幸町だより No.156
『見守ってくださるように』(詩編121)
牧師 村島 義也
詩編120~134の小題はいずれも「都に上る歌」であり、「巡礼歌集」と呼ばれる。その昔、各地・各国に散って生きるユダヤの人々、或いは神の御教えに心うたれる異邦の人々は、神殿の立つエルサレム・礼拝の都を慕って巡礼の旅をした。121編は「上る」というより、巡礼を終え、これからまた故郷への長い旅路につこうとする人の唱に始まる。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」エルサレムを囲む山々を眺め、これから越えて行かねばならない旅路に思いを馳せる。パレスチナは我が国と同じ山国~風景こそ大いに異なるが、旅路と言うとやはり先ず困難な山路が思われる。しかも古代の旅路、様々な危険や困難が待ち構えている。不安である。けれども巡礼者は主への礼拝を思い起こしてこう言う、自らの心に言う、「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」 3節以下は、この巡礼者を見送る祭司たち、あるいは共に礼拝を献げなお居残る人々が送る祈りの唱。主があなたを助け、足を支えて下さるように。常にあなたを見守って下さるように…見よ(そうです!)、神の民を見守る方は「まどろむことなく、眠ることもない」。これは次の故事に因む言葉だろう。かつてイスラエルが奴隷の地・エジプトからいよいよ解放されようとする前夜の事。聖書にこう記されている、「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」。そのように弱き民に心を砕き給う神、心配し、見守り給う神。これから幾つもの夜・昼を越して行くのだろう。けれど主はあなたを見守ってい給う。5節「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」この言葉には詩23編の言葉が重なって聞こえて来る、「たといわれ死のかげの谷をあゆむとも禍をおそれじ。なんじ我と共にいませばなり。」 7節以下はおそらく祭司の祈り(祝祷)だろう。遠い旅路を思えば、二度と再び会えぬのかもしれない~一期一会。だから祭司は終わりに、今回の旅の意味の限りではなく、巡礼者たちの人生という旅路の上に、主の見守りを祈る。「主が、あなたを見守り、あなたの魂を見守って下さるように」。こうして一つの人生を辿るこの人、こうして礼拝を献げる旅路を辿ったこの人、この魂を主が見守り給うように。8節「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」「出で立つのも帰るのも」は「何処へ行き何処にあるとも」、そして暗に「生きる日々にも死ぬる折にも」。
今を生きる我々、この世の旅路を辿る我々、山々を仰ぐ我々である。けれど神が見守っていて下さる。我々の礼拝の魂を、命の祈りを、創り主である神は慈しみの御目をもって捉え、まどろむ事なく、眠る事なく、見守っていたまう。そして我々にはインマヌエル(神我らと共にいまし給う)の主、我らの救い主、助け主、イエス・キリストがおられ、我々の人生に伴っていてくださる。我々も今日、共に祈り合おう。「主が共におられるように。主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」
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以上はかつてなした説教の要約です。京都御幸町教会を去ることを寂しく存じます。私は京を離れますが、世にある限り今日は去って明日が来ます。そして、私たちの巡礼の旅路の果てに神の都、天の故郷が待っています。 愛する皆様へ、心を込めて祈ります。「主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」